日本人の日本人的な思考の弱点は、この<合目的性>の欠如にこそあると私は感じているのですが、浅い読み方をする読者の批判を覚悟して言えば、資本主義機構を支える株式会社の存在理由は自明であり、それはその時々、その時代を支配する社会の思想の許容範囲を制約要件としながら(実は<自然>である社会との共生を図りながら)、自らの役割を遂行する事によって(製鉄会社であれば、その時代の求める高い品質の様々な鉄製品を、その時代の求める量、適正な価格で供給する事によって)、超過利潤を獲得し、資本を増殖させる事、となるでしょう。
よって問われるのは、その目的の遂行に際して、ある判断、ある事項が、その時代の制約(法がその最大のものでしょう)を前提に、是であるか非であるかという事であり、例えば今回の大王製紙の問題でも、創業家出身の会長にその金額を融通する事が、大王製紙全体の資本増殖に貢献するのかどうか、オリンパスで問われるのは、その損失の隠蔽が今後のオリンパスの資本増殖に貢献するのかどうか、という点になります。
もし仮に大王製紙が、前近代から我々日本人が慣れ親しんだイエという組織体であったなら、是であった答えも、もし仮にオリンパスが、或る意味単純化された<合目的な組織>ではなく、あらゆる目的を未整理なまま鵺のように呑み込んだ<共同体的な性格の強い組織>であったなら是であった答えも、<合目的性>という光で照射すれば、明らかにそれは非となる、そんな話ではないでしょうか。
大王製紙、オリンパスともに私企業ではなく一部上場の公開(公に開かれた)企業であり、資金の調達に際してその恩恵を受ける事を、情報公開の責務(責務はこれだけに限定されるものではないですが)の代償として、より大きな資本増殖のために成長のどこかの段階で選択し、その選択をそのまま受け継いでいた訳なので、既にその点においても、2社は責められるべき禍根を負ったという事でしょう。
そこで学ぶべきは、そのような企業に関係する人々の<合目的性>に関する意識の低さであり、各自があらためて、<自然>ではなく<作為>として株式会社は存在する、という意識を持つ、自覚を持つ、その上で、例えば共同体の一員としてではなく、合目的な機関の一員として、非を非として遠慮なく互いに糾弾する、その姿勢ではないでしょうか。
当たり前の話ですが、株式会社はイエでもムラでもないのです。
とは言え、それがなかなか難しいのは実際に株式会社で生活する我々の常識でもあります。最後の読売巨人軍の問題にも繋がりますが、会社が<合目的な組織>でありながら、前近代を色濃く残し、イエとして、ムラ=共同体として、第二の<自然>として、我々自身が認識し、その組織に依りかかってしまう傾向を誰も否定できないでしょう。
そしてまたイエでありムラでもある機構だからこそ、誰かを最高権力者や調停者としての長老にして、難しい決定を全てその権力者の名前で行う<楽さ>が存在することも(大袈裟に言えば、人間集団においては<支配される気楽さ>を、知らず知らずのうちに求めて、我々が(ここでも)我々の中のヒトラーを作り出してしまう傾向が存在することも)事実でしょうし、それが渡辺氏のような存在が多くの企業に見られる要因だと思います。